2023/10/05 10:04

皆さまご無沙汰しております。久しぶりの投稿です。

今回は鹿児島国体が近づき、天皇陛下を始めとする、皇室の皆様が競技観覧の為に鹿児島にお越しになるという報を聞き、わが社の社長 山下の思い出、昭和の歴史をここに記そうと思います。

 

時は終戦直後の1949年(昭和24年)。物語の主役は山下ではなく、鹿屋市の小さな写真館のご主人です

その方は戦争での名誉の負傷により片腕を欠損。戦争が終わり地元に凱旋したものの、その生活は大変なものだったそうです。

そんな中、写真館のご主人に転機が。 それは昭和天皇がご自身で発案された全国巡幸です。

敗戦後の混乱の中、国民を励ますことを目的としたこの巡幸。

鹿児島県にもお越しになり、3泊4日の日程で、鹿児島県内を回られました。

 

そんな折、先ほどの写真館には休業の札が。山下はそれを見て、経営が苦しく、ついに閉めたのかと考えました。

しかし結果は違いました。その方は昭和天皇の行き先に随行し、そのお姿を写真に収めていたのです。今のように道は整備されておらず悪路の中、オートバイで県内各地を回るのは大変な苦労だったそうです。

では何故そこまでの苦労をなさってまで、その方は写真を撮ったのか。宮内庁から撮影の依頼をされたわけでもなく、誰かに依頼をされ報酬のでる仕事でもないのに。

その理由は私達には思いもよらない物でした。

昭和天皇が巡幸を終えてから2週間後。その方は各地で撮影した天皇陛下のお写真を販売し始めました。その写真は大変な好評で、各地で飛ぶように売れました。

では何故そのお写真はそこまで売れたのか。その理由は天皇陛下と一緒に「私達」が写っていたからです。天皇陛下を自分で撮ればそこには「自分」は写っていません。

しかし、写真屋さんの撮った写真には天皇陛下と一緒に「自分」も写っています。それが人々の心を打ちその写真は大売れ。写真館のご主人はその時の売り上げで鹿児島市の一等地に自社ビルを建設。

アイディアひとつで傾きかけた写真館が大逆転。我が社の社長山下もそうですが、昭和の激動の時代を生き抜いた方たちの行動力には脱帽です。

その方は社長よりも年上でしたので、ご存命なら御年は100歳を超えております。今となってはこの話を知る人も少なくなり、自分に人としての生き方を、そして漢としての生き様を教えてくれた諸先輩方はもういない。そう語る山下の顔はとても寂しそうなものでした。

山下は彼らを見習い、今も挑戦を続けております。自身で考え開発した「オッスクン」鹿児島県の名山桜島を全国に広めたいと生み出した「桜島溶岩ボール」

そして山下が先輩方から教わった事を、今度は山下が私に伝えてくれました。この教えのリレーを次に繋げたいと思い、今回はこのブログを書きあげました。

これを読んで皆様の心の片隅にでもなにか残る物があれば幸いです。